三代続いたヤスリ屋の三代記
「ヤスリ.jp」を運営する「株式会社 ユニーク」の現社長「畝 還司(うね かんじ)」は、ヤスリ屋の三代目。
時代が流れても「ものづくり。日本」を支えるのは職人の技能と、技能を引き出す工具です。とりわけノコギリやカンナ、ノミといった派手さがなくても「なくてはならないヤスリ」の重要性は語るまでもないでしょう。
そんなヤスリとともに歩いた三代記です。
■初代 畝義人
朝は朝星、夜は夜星(朝早くて星が出ていた時間から夜の星が出るまで)によく働く努力家でした。 人間はぎんとにぎんと(几帳面とか礼儀正しいという意味)で、商いの支払はすべて持参したものです。 明治から大正へと日本が駆け上がっていく中、造船基地のある呉のすぐ側でのヤスリ造りは必需産業で、地場産業であるヤスリ造りに取り組んだのは義人にとっては自然流れでした。 地域の役職につくなど面倒見が良かったようです。
■二代目 畝邦弘
初代は子沢山(当時はあまり珍しくないのですが)で男5人、女4人の子供で二代目は8番目に生まれました。
小学校1年生で終戦を迎えた邦弘は、鈩の職人のトントンというけたたましいヤスリの動力目立機と、ヤスリを焼いて延ばすダンダン、コンコンという音を常に聞いて育ちました。日本復興に向けて徐々にけたたましさが増していくことが脳裏に焼き付いています。
仁方の自然の中で育った邦弘は泳ぎが好きで、夏場は下着の替わりに海水パンツを履き近くの海で泳いだものです。
少年の日の記憶の太陽はやたら大きく、暑さを帳消しにする水面に飛び込む瞬間は至福の一言でした。
19歳の夏に本家の倒産により早稲田大学の受験の中止し3年間無収で働くことを余儀なくされたが、後日夜学(大学二部)に進学し自動車部など入部して青春を謳歌する。
ヤスリ制作手伝いでスキ3年、目立て1年の後、営業に移りました。
24才で東京進出です。家業のヤスリの販路拡大です。当時の東京はオリンピックを控えた映画「三丁目の夕日」そのままです。
29才、畝鈩と小谷鈩が合併して(株)呉英製作所が創立され創立初代所長に就任します。
その後、販路拡大に東京を拠点として日本全国を駆け回り、営業だけに納まらずに、鈩(ヤスリ)・砥石、ダイヤ、セラミック、インプラント、ダイヤ薄膜の製造も手がけています。特に「何でも削れる」ダイヤモンド工具のスペシャリストして、一線を退き会長となった今でもダイヤモンドを使った新作工具の開発を続けています。
■三代目 畝 還司
浅草吉原(日本堤)に生まれる。
1才のとき東京足立区六月町に引越し。まだ平屋が多く街のあちこちに空き地や原っぱがあり「三丁目の夕日」にでてくる子供たちのような遊びばかりをしていた。
島根小学校より東邦大学付属中学校へ。
高校で三年間過ごした陸上部の上下関係は21世紀になった今もまだ健在だ。
中高通算6年間皆勤賞で6年間無遅刻・無欠席は全校でも数少ない。
付属大学へは進まずに「一芸入試」をはじめるなど、積極的に新しい試みに挑戦する亜細亜大学経営学部経営学科に入学。
入学した夏にピースボートに参加(筑紫哲也さん、辻本清美さんなどと同船)しアジア各国を船でボランティア・地域交流等をしながら世界の大きさに感動し、その活動理念に感銘を受ける。
3年の夏にはアメリカ(シアトル)のPLU大のサマースクールに参加。
バブル経済まっただ中で就職協定のあった時代、温泉への「内定旅行」などの異常な日本の姿に疑問を感じ、大学卒業と同時に自分で探したテキサスの片田舎の小さなカレッジに留学する。
大学時代の「世界へでる」経験は、より大きな広い世界を求めて広島から東京に進出した二代目の遺伝子によるものか。
帰国後、旅行会社勤務を経て目黒のボーリングメーカーに就職。
営業職に従事、世界を見てきた目には「日本型社会」は時に奇異に映り、時に優しく見えた。日本的な「大人の事情」を学んだのもここでの経験だ。
ファッション小物の製造企業に移り「貿易」の現場を学ぶ。当時世界の工場として躍進著しかった中国に委託工場があり、現地を往復するうち、顔かたちは近いのに文化的に大きく違う「中華」を肌で感じた。在庫管理・発注のタイミング・中国人との駆け引き等、かけがえのない勉強をすることとなった。
2000年の1月に二代目(現会長)とともに株式会社ユニークを設立。
2001年、社長に就任。「呉のやすり屋 三代目」となる。